城の各所について被害の詳細調査を行いつつ、実際の工事も進行しているところです。
たとえば私の担当する石垣でいうと、約50カ所が崩れ、その約2倍の面積の石垣が変状、変形していることから、工事では全体の約3割の石垣を修理することになります。ただ、これをすべて同じ方法で修理すればいいわけではなく、それぞれの石垣の特色に合わせた復旧が必要です。そのため、どういう技術で作られた石垣なのかを事前に把握した上で、修理工事の計画を立てていきます。
はい。石垣に使われている石には、それぞれ石材に違いがあったり、石垣一つ一つの高さ・勾配・形状に違いがあったりします。そのため、それぞれの箇所に対応した復旧方法を採用せねばなりません。
例えば、加藤家の後に細川家が熊本城を管理していたのですが、今回の崩落石垣の調査によると、細川家が修理した箇所で石材の割り方が切り替わっている事例があることがわかりました。
加藤時代に比べたら、細川時代の石垣は四角く、より柔らかい石を使っています。おそらく細川家が石材を確保して切り出した場所が、加藤家とは違う場所なのだろうと考えています。
また、石垣築造時と修理時の技術間にも大きな違いがあります。調査でわかったこととして、明治22年に熊本で大地震があったのですが、そのときに崩れた42箇所の石垣を陸軍が修理していたことがわかりました。
熊本城は明治初期から陸軍の駐屯地でした。この陸軍による修理箇所は、熊本城の石垣全体の7~8%という、大きな割合を占めています。文化財石垣であるため、この部分の復旧工事には、当時の陸軍が採用した修理手法と同じ方法を採ることが原則となります。
復旧工事と言っても、単なる工事ではなく、あくまで文化財の修復工事だということを、いつも強く意識しています。
今回の復旧工事では、文化財としての熊本城の本質を見定めていくことが必要です。熊本城には石垣以外にも文化財指定の建造物がありますが、これらを調査しながら復旧工事を進めていくことは、熊本城の新しい魅力を発見する大きなチャンスでもあります。
熊本城の石垣はそのほとんどを加藤清正が造ったものです。加藤清正は日本一の石垣名人と言われているほど、石垣造りの実力が高く、清正は名古屋城天守台石垣を、二代目の忠広の時代には江戸城・大坂城の天守台の石垣を造っています。熊本城は、いわば日本一高い技術で造られた石垣を直接見られる貴重な場所だともいえます。
また、石垣以外ですと、今回の工事では宇土櫓(うとやぐら)の価値の高さにも改めて目を向けていただきたいです。
宇土櫓は単なる櫓ではなく、5階建てという高層建築で最上階に廻縁や高欄があり、鯱をのせるなど天守特有のデザインをもった建築です。建築された年代は天正末期まで遡る可能性があり、そうであれば、日本の現存する天守建築の中でも最古級の事例となります。今回の修理の過程で、宇土櫓の建築時期や構造が明確になればと思っています。現在は重要文化財ですが、今回の復旧工事が、宇土櫓のさらなる文化財的価値をみなさんに認識してもらうチャンスでもあると考えています。そうした取り組みが「創造的な復興」となり、熊本城ファンへのプレゼントとなれば嬉しいですね。
注:宇土櫓については昨年のインタビューも御覧ください。