村上は岩手県紫波郡紫波町出身。学んだのも岩手大学農学部農学研究科である。幼い頃から周りにホップのある環境で育った。彼がキリンビール入社したのは1988年(昭和63年)のこと。ホップの品種改良をするという仕事での採用であった。
麒麟麦酒(当時社名)のホップへの取り組みは、1920年(大正9年)、山梨県でのホップの試験栽培から始まった。さらに、1937年(昭和12年)山梨県の農家と契約栽培を始め、1939年(昭和14年)山梨県に韮崎忽布処理場を開設、山形県でもホップの試作を行う。太平洋戦争下、農産物の自給策により、国産ホップは各地で増産され、麒麟麦酒でもホップの生産を拡大していった。そして、1943年(昭和18年)には国産ホップ全体として過去最大の生産量となる。ただしこの後、終戦前後のビールの製造停止で、ホップの生産量は激減する。戦後ホップの生産が復調する中、1953年から1954年頃にはキリンビールが、「信州早生」から品種改良した「キリン2号」を開発、それは現在「IBUKI」という名前で商標登録されている。1964年(昭和39年)、後に村上敦司とも縁の深くなる岩手県遠野市でもホップの試作が始まる。
しかし、1968年(昭和43年)以降は農産物の輸入自由化が進み国産ホップの栽培が再び減少してゆくこととなる。そんな中、1980年(昭和55年)にキリンビールの「かいこがね」が日本で初めて品種登録された。これは、サッポロビールが1984年(昭和59年)に「ソラチエース」「フラノエース」を品種登録するよりもまえのことであった。
入社当時から、国産ホップの生産量が年々減少してゆく状況を目の当たりにしていた村上。印象的な出来事は入社1年目に起こった。新入社員だった村上が、「今年の新入社員の村上です。ホップの品種改良やっています。」と、とある人に話をしたら、「何でそんなことやってんだ?」と言われたのだ。品種改良を期待されて採用されたと思っていたが、肩透かしをくらう。このような出来事もあり、村上自身も当初は研究者意識が高く、彼にとってのホップとは学術発表を行うための一つの研究材料であった。また、ホップの品種改良の目的も、苦味成分の多いホップの生産であり、そうなると海外産のホップとの差はなく、むしろ価格差において不利になる状況が続いた。世界的にもホップの開発は苦味が中心で、まだまだ香りは注目されることもなかった。
そんな中、村上はある先輩とのやりとりの中から新しい境地を開くことになる。先輩から言われたのは、「生ホップを使ったことがあるのか」と言う一言だった。ホップの香りは、ホップ自体を乾燥させ加工していくうちに失われてゆく。実際ホップを乾燥させる現場は60度の熱風で6時間から7時間かけて行うが、そこにはむせかえるようなホップの匂いが立ち込めている。ここで失われるホップの鮮烈な香りを残すために、ホップを乾燥させず冷凍保存してフレッシュなまま、つまり「生ホップ」を使うという発想。青臭くて飲めないんじゃ無いかと思いながら試しに実験室でつくったビールの香りに驚いた。1999年(平成11年)のことである。研究所の仲間に飲んでもらうと評価は二分した。面白いという若い人たちと、ホップ臭が強すぎるというベテランたち。それでも毎年作り続けて何年も続けて飲んでもらううちにだんだん賛同者が増えていく。発売に漕ぎ着けたのは2002年(平成14年)。それが遠野産のホップ「IBUKI」を使った現在の「一番搾り とれたてホップ生ビール」の前身である「毱花一番搾り」である。限定商品として採用された「とれたてホップ」はホップの持つフレッシュな香りの効いた個性的なものになった。ただ「とれたてホップ」でビールを醸造するには、水分が多くベタつく「生ホップ」そのものを手作業で麦汁に投入する必要がある。機械化された工場の中で、多くの人たちの協力がなければできない作業だ。しかし現場はむしろ好意的に取り組んでくれた。ビールづくりの原点を見るかのようでもあった。
このホップの利点の一つに、当時輸入物に押されていた割高な国産ホップの状況下で、実は「生ホップ」を使うとなると、海外産のものはむしろコスト高になって使えなかったこと。そこには、国産ホップが工夫ひとつで急に価値のあるものに変わるビジネスチャンスのアイディアを感じる。「生ホップ」は、村上の意識も変えた。お客さまからのおいしいという声を直接聞くことで、本当にお客さまに喜んでもらえるホップを作りたいという気持ちが強くなったのだ。
そこからは特に香りに注目したホップの研究が加速する。海外から品種を取り寄せてはビールにして試す。彼の強みは、ホップの開発と同時にビールを醸造する技術もあったことだ。それでもホップ自体の香りから、ビールになったときの香りを想像するのは難しいと言う。当時キリンビール社内でも「ホップ臭」と蔑まされていた「ホップの個性的な香り」もいつしか「ホップ香」と呼ばれるようになる。そんなとき、彼にとってのもう一つの転機があった。 (つづく)
村上さん、
アイディアと実現する努力。
素晴らしい。
2011年(平成23年)東日本大震災。地元が苦難に陥る中、自分なら何ができるかを問う。その答えは、やはりホップを作ること、東北産の独自のホップがあれば、地元のみんなを笑顔にできるのではと考えた。1991年(平成3年)からキリンビールが基礎研究として交配を進めていた品種の中から、いちじくやみかんのような他のホップには見られない特徴を持つ個性的なホップを見出した。このホップは後に「MURAKAMI SEVEN」と名付けられる。2016年(平成28年)にようやくビールとして発売された「MURAKAMI SEVEN」は、大好評を得て、今やビール好き、クラフトビール愛好者などビールをよく知る人たちに特に愛される存在となった。まさにホップの個性、ホップの香りでビールを選ぶ時代の先駆けであり、村上が東日本大震災に思い描いた東北のここにしかないホップをつくるという想いの結晶でもあった。村上は「MURAKAMI SEVEN」の特徴を「華奢な美しさの中にある芯の強さ」だと語る。世界の様々なホップが強い個性を押し付けようとするのとは違い、極めて奥ゆかしい日本的な美学を感じる。それは世界の中でも同じようなホップが無いという意味で国際競争力があると言える。また、もうひとつ忘れてはならない大切なことは、収穫のしやすさである。年々ホップ農家が減っていく中で、実は収量を確保し、手間がかからないことは国産ホップ産業を残してゆくためにも極めて重要だ。
「とれたてホップ」
そして
「MURAKAMI SEVEN」。
ホップの可能性を広げた
村上の次の挑戦は遠野にあった。
2020年(令和2年)、村上はキリンホールディングス飲料未来研究所の技術アドバイザーに就任。現場からは一歩離れることになった。このとき彼が長年暖めていた、店を作るという夢を実現させる。「Brew Note遠野」。言わずと知れたジャズの名店をもじって名前にした。長年買い込んだ趣味のジャズレコードを聴きながら、美味しいビールを楽しんでもらう店だ。場所は遠野。ホップづくりで長年通った場所である。遠野とキリンビールは実は深い関係がある。2007年(平成19年)キリンビールと遠野でTKプロジェクトが始まる。これは国産ホップ衰退の危機に際し、なんとか遠野産のホップを盛り上げようという試みだ。
もちろん村上が開発し、2002年(平成14年)から商品に使われ続けている遠野産の「とれたてホップ」も、2016年(平成28年)からビールとして届けられるようになった「MURAKAMI SEVEN」も、その深い縁のきっかけの一つである。当初は限られた人だけのクローズしたものであったが、それを市民みんなが参加できるよう「ホップの里から、ビールの里へ」と言うスローガンを掲げ、「ビールの里プロジェクト」として様々な活動が今も続いている。そんな遠野に村上が店を作ることは、単にビールの店がひとつできるということではない。プロジェクトを活性化する役割を皆が期待する。遠野のホップを中心に人が集まり、街を活性化し、文化をつくる。志を同じくする仲間もたくさんいる。ホップ農家、クラフトビールのブリュワー、ホップを観光に結びつける取り組み。支える行政。キリンビールもその一つだ。それらの関係を密にして新しいムーブメントが生まれる。それは村上の未来に向けた次の挑戦だ。目標は高い。しかし現実はそう簡単でもない。例えば、遠野にホップを栽培したいと言う若手も集まるようになったが、ホップだけで食べていけるかというと難しい。長く続けられる産業にならなければ先がない。それでも遠野には村上と力強い仲間たちがいる。一人では難しいことも皆で解決することで少しずつ光が見えてくる。村上の店にはそんな仲間たちや、ホップに関わろうとする若手が集まる。皆、村上の話を聞きたいのだ。
“ホップ博士”村上が考える国産ホップのこれからとはどんなものだろう。大手ビールメーカーが安定的に国産ホップを使う。各地域では個性的なホップが生み出されてゆく。量と質の両方を成立させる関係性が大切だと語る。質で言えば、個性的なホップを飲み比べながら楽しむ時代になるとホップの可能性は拡がる。それにはお客さんの知識や体験も大切になる。ワインの葡萄の品種のように、ホップの特徴を理解し、自分の好きなものを見つけ、個性を知ること。シングルホップでビールを作ると言うのも面白い。村上のアイディアは尽きない。そしてその土台をつくるのは長年ホップに携わってきた自分たちベテランの責任だとも言う。
「ホップ農家は、自分のホップでつくったビールをおいしく飲んでくれるお客さんの顔を見るのが一番うれしそう」そう笑う村上のもとに集まる、ホップに夢を持つ人たちがいる限り、未来は明るい。村上が描く国産ホップの未来は、すでに始まっているのだ。
村上さん、
ホップの未来は
楽しみですね。