1882年(明治15年)8月31日 生誕
長野県南佐久郡北牧村豊里に生まれる。
河岸段丘、上信県境尾根、八ヶ岳に囲まれた日照時間の少ない夏でも涼しい地域。
武雄の父、篠原倭三郎はその地で農業を営んでいた。
1910年(明治43年) 札幌のホップ園での研究
日露戦争出兵後、篠原は1908年(明治41年)に設けられた北海道、山鼻ホップ園で、大日本麦酒札幌工場製麦係の現場作業員として従事する。当時醸造技師見習いとしてドイツに留学中だった八木久太郎が1898年(明治31年)に送った一袋のホップ種子由来の約5万7千にも上るホップ株を、1910年(明治43年)から1912年(明治45年)にかけて、同僚の内山治六と共に10種類に分類。その中の5号種(札幌5号)、6号種(札幌6号)は北海道に適する優良品種として北海道で増殖を図った。
同時期、笠原十司製麦係長の示唆により、ドイツ産のザーツ(Saaz)の雌にアメリカ系のホワイトバイン(Whitebine)の雄を交配、得られた種子のなかからきわめて優良なものを1912年(明治45年)に選抜、育成する。これは、「山鼻より白茎の雄を取り来たり、雌花は独種ザーツ」と記録されている。「山鼻のホワイトバイン」を長野に持ってきて、ドイツ産のザーツと掛け合わせたという意味で、後の「信州早生」になる。
1913年(大正2年) 長野に適したホップ
大日本麦酒は札幌のホップ園地で、べと病大発生や生育中の東南の強風より、北海道以外の本州でのホップ栽培を計画。米国のホップ栽培者沖建二氏一時帰国時に協力を得て、候補地3県(山形、長野、山梨)から長野県を選出。農務省許可により、長野県農事試験場において、篠原が札幌で育成した14系統を県内15カ所で栽培試験。この中で、(雌の)ザーツ(Saaz)と雄のホワイトバイン(Whitebine)の交配種を優良種として「ドイツ種」と称し、成績が非常によく長野県の気候風土に適していることがわかった。
篠原自身も、北海道から長野に戻り、ホップの研究、育成に携わることになる。 故郷の佐久の野草だった「八重葎(やえむぐら・百人一首にも登場)」が、ホップの原種に近いという発想から、長野県に適したホップが作れるはずだと思いついたという話もある。
1913年(大正2年)〜1917年(大正6年) 信州忽布
1913年から1917年にかけて、篠原は大日本麦酒の長野出張所技師として、農事試験場栽培長加藤内蔵介とともに優良種である「ドイツ種」を「信州忽布」と命名し、会社直営の試作地を穂積村に開設して増殖を図る。1917年、「大日本麦酒長野ホップ園乾燥所」が、長野県石堂町に建設され、以降この乾燥所隣接地の圃場で試験栽培を続けた。
1919年(大正8年) 信州早生
大日本麦酒は「信州忽布」を「信州早生」と改名し穂積村で契約栽培を開始した。この「信州早生」はアメリカでも評価を得たことが、アメリカ農務省から篠原に宛てた書簡でも知ることができる。その後篠原は長野を中心に、「信州早生」の増殖に尽力し、やがて国産ホップの最大品種にまで生産量を伸ばすことになる。1930年(昭和5年)に大日本麦酒を退職したが、その後も忽布栽培指導係として長く、ホップの栽培指導を行なった。
1921年(大正10年)6月11日アメリカ合衆国農務省植物産業局から篠原さん宛の手紙
1942年(昭和17年)12月30日 表彰
ホップ育成に大きな業績を残した篠原に、大日本麦酒は国産ホップ自給を達成した昭和17年に、金一封(500円)を添えて特別表彰を行い、その功績を讃えている。高橋龍太郎社長(当時)からの表彰状には、「貴下の功績や不滅と云うも過言にあらざるべし」と最大限の賛辞が贈られている。一年余りの後亡くなる直前まで、ホップ栽培指導を続けた。
エピローグ
1930年(昭和5年)退職のとき、篠原の日記にはこう記されている。
「明治41年から23年間、忽布栽培主として研究に従事す…大正2年4月(長野の)農事試験場に着任・・・着任の当初忽布の一株もなかりし…感慨無量なるものなり。」