歴史紹介

開拓使麦酒醸造所の開業と札幌ビールの発売

明治新政府は1869(明治2)年7月、北海道開拓のため「開拓使」を設置。開拓使が廃止される1882年まで、30工場以上にも及ぶ事業が実を結びます。数多くの事業の中にはビール醸造も含まれていました。
開拓使は日本人として初めて本場ドイツで修業したビール醸造人中川清兵衛を迎え入れ、1876年6月から醸造所の建設に着手し、9月に「開拓使麦酒醸造所」を完成させます。サッポロビールの歴史はここに始まります。醸造所は木造2階建てで、建坪は260坪ほどでした。開業式での記念写真が残されています。積み上げたビール樽には「麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒になる 開業式」と白字で大きく書かれています。(写真①)
北海道初のビールは、冷製「札幌ビール」と名づけられ、1877年9月に東京で発売されました。「冷製」とはドイツ醸造法による、低温で発酵・熟成させたビールとの意味です。(写真②)ラベルに描かれた開拓使のマーク「北極星」は、サッポロビール伝統のシンボルとなっています。
黒田開拓長官はビールの原料となる大麦、ホップの育成と地元産利用を指令します。このことが、今日まで続いているサッポロビールの品種改良と協働契約栽培の端緒です。
開拓使は札幌官園(実験農場)などで大麦の試験栽培を行いますが、栽培に適した大麦が得られず苦労の連続でした。1880年、ようやく全量を道内産で賄うことができたのです。ホップ栽培にしても、植え付けた苗が枯れてしまうことが何年も続きました。開拓使麦酒醸造所で使用するホップすべてが道内産になったのは1881年のことでした。
開拓使が廃止された1882年3月、開拓使麦酒醸造所は農商務省工務局の所管となり「札幌麦酒醸造所」と改称。その後、1886年1月、醸造場は新設された北海道庁に移管されました。北海道庁の初代長官岩村通俊は、本土資本の北海道導入を奨励するため、道庁所管の諸工場、農場を民間への払い下げ、または貸し下げる方針を打ち出します。
道庁から札幌麦酒醸造場の払下げを受けたのが大倉喜八郎でした。1886年11月、官営ビール事業は民営化され「大倉組札幌麦酒醸造場」として新たなスタートをきりました。しかし翌年、大倉は政財界に多大な影響力を持つ渋沢栄一、浅野総一郎らに事業を譲渡してしまいます。大倉はビール事業をより確実なものにしたいと考えたようです。1887年12月、大倉自らも経営に参画し、新会社「札幌麦酒会社」を設立。渋沢らの加入により、大きく飛躍する基礎が確立したといえます。

  • (写真①)開拓使麦酒醸造所の開業式での記念写真
    (写真①)開拓使麦酒醸造所の開業式での記念写真
  • (写真②)発売当初の「札幌ビール」のラベル
    (写真②)発売当初の「札幌ビール」のラベル

日本麦酒醸造会社の設立と恵比寿ビールの発売

ビール事業の将来性に着目した東京や横浜の中小資本家が集まり1887(明治20)年9月、日本麦酒醸造会社が設立されます。しかしながら、設立発起人の中に、資力と名声を兼ね備えた一流の資本家や実業家がおらず、出資者を勧誘する力はありませんでした。1889(明治22)年4月の株主名簿には、株主として三井物産会社の幹部らが名を連ねています。こうした安定株主の登場で、日本麦酒醸造の経営がようやく安定したのでした。
会社設立から2年が経過した1889年10月、現在の東京・目黒区三田にヱビスビール醸造場が完成。(写真③) ビールの製造設備はすべてドイツから購入し、醸造技師もドイツ人を招きました。同年12月からビール醸造を開始します。そして1890年2月、「恵比寿ビール」は発売されたのです。(写真④)
恵比寿ビールは品質の高さから人気を博します。偽物の恵比寿が出回るほどでした。とはいえ、当時、わが国でビールの味を知る人は少なく、まだまだ小さな存在でしかありませんでした。そこで、工場直送の出来立て生ビールを味わってもらい、そのよさを知ってもらうため、1899年(明治32)8月に、現在の東京・銀座8丁目に日本初のビヤホール「恵比寿ビール BEER HALL」を開業します。(写真⑤) 僅か40坪ほどの店舗でしたが、店内はこれまでの居酒屋とは異なり、当時としては斬新な装いでした。ビヤホールの評判を聞きつけ遠方からのお客も多く、新しもの好きの江戸っ子には好評だったようです。1日1,000ℓも売れる日もあり、宣伝目的のビヤホールは売上も好調で、商売にもなるという一石二鳥の効果がありました。
ビール事業の将来性に確信を持った日本麦酒の社長馬越恭平は、増資を行い積極経営に転じます。醸造設備の新鋭化と先端技術の導入を推進。恵比寿ビールのさらなる品質向上に努めたのです。そして、恵比寿ビールは1900年のパリ万国博覧会で金賞を受賞しました。ビールは30ヶ国以上から出品された中からの受賞でしたので、本物の評価といえます。1904年のセントルイス万国博覧会でもグランプリを獲得しました。ヨーロッパばかりかアメリカでも認められたのです。
日本麦酒は1901年2月、より大量に、より遠くへビールを運ぶため、専用の貨物駅「恵比寿停車場」を開設します。(写真⑥) その後、醸造場の周辺の人口も増加したことから、日本鉄道は、1906年10月に渋谷駅寄りの場所に、現在のJR「恵比寿駅」を開業しました。
そして、1928(昭和3)年1月、渋谷町下渋谷の伊達跡など周辺の地名が恵比寿通と改称されました。一企業の商品名が駅名となり、ひいては地名の起源ともなった極めて珍しい例です。

  • (写真③)竣工当初の「ヱビスビール醸造場」
    (写真③)竣工当初の「ヱビスビール醸造場」
  • (写真④)発売当初の「恵比寿ビール」のラベル
    (写真④)発売当初の「恵比寿ビール」のラベル
  • (写真⑤)恵比寿ビール BEER HALLの外観
    (写真⑤)恵比寿ビール BEER HALLの外観
  • (写真⑥)恵比寿停車場
    (写真⑥)恵比寿停車場

大合同、大日本麦酒株式会社の発足

1890年代後半のビール業界は札幌麦酒株式会社(札幌ビール)、日本麦酒株式会社(恵比寿ビール)、ジャパン・ブルワリー・カンパニー(麒麟ビール)、大阪麦酒株式会社(朝日ビール)の大手4社が激しい販売競争を繰り広げていました。
そうしたなかで、ただ札幌麦酒は工場が札幌にあることから立地上の不利は免れませんでした。京浜市場では恵比寿ビールや麒麟ビールに大きく水をあけられていたのです。同社は1899(明治32)年6月の臨時株主総会で、東京工場の建設を提案し、承認されました。1903年9月、隅田川沿いに東京工場が完成し、札幌ビールの出荷を開始します。同工場の威力はすさまじく、2年後の1905年、札幌麦酒はビールの製造量で業界トップとなったのです。(写真⑦)・(写真⑧)
最も影響を受けたのが、関東市場で絶大な人気を誇っていた恵比寿ビールでした。壊滅的ともいえる状況に陥った日本麦酒の社長馬越恭平は、札幌麦酒の会長渋沢栄一や大阪麦酒の社長鳥井駒吉らに、競争よりも団結すべきだと論じました。馬越の考えは渋沢や鳥井にも受け入れられ、合同することで各社の希望が一致。そして、1906年3月、札幌、日本、大阪麦酒の3社が合同し、市場シェア7割を誇る大日本麦酒株式会社が発足したのです。社長には馬越恭平が就任。後に馬越は、大日本麦酒をスエズ運河以東最大のビール会社へと導き“東洋のビール王”と呼ばれました。

  • (写真⑦)札幌麦酒東京工場
    (写真⑦)札幌麦酒東京工場
  • (写真⑧)1904年の「札幌ビール」のポスター
    (写真⑧)1904年の「札幌ビール」のポスター

「ニッポンビール」から「サッポロビール」へ

大日本麦酒は過度経済力集中排除法の適用会社となり、1949(昭和24)年9月、日本麦酒株式会社と朝日麦酒株式会社に分割されます。日本麦酒は大日本麦酒から「サッポロ」「ヱビス」を継承しますが、両ブランドとも地域ブランドであったため、どちらかを新社名に採用するには難があったようです。そこで、全国的な広がりをもち、また大日本麦酒を継承する意味で、日本麦酒として再スタートを切ります。
1949(昭和24)年12月、ビール各社のブランドが復活します。日本麦酒は新ブランド「ニッポンビール」を発売。(写真⑨)しかし馴染みのないブランドの力は弱く、ビールの消費が年々伸びているにも関わらず、日本麦酒だけが苦しい状況が続きました。シェア低下が続くなかで、1954年ごろから消えていたサッポロビールの復活を望む声が高まりはじめたのです。1956年3月、札幌工場創業80年記念を兼ねて、発祥の地、北海道限定でサッポロビールを復活発売させました。発売直後から売れ行きは極めて好調で、こうした状況を受け、翌年1月、全国復活発売に踏み切ったのです。(写真⑩) そして、1964年1月には、会社名をサッポロビール株式会社と変更しました。(写真⑪)

  • (写真⑨)「ニッポンビール」のラベル
    (写真⑨)「ニッポンビール」のラベル
  • (写真⑩)全国復活した「サッポロビール」
    (写真⑩)全国復活した「サッポロビール」
  • (写真⑪)社名変更の新聞広告
    (写真⑪)社名変更の新聞広告

「ヱビスビール」の復活発売

社名を変更したサッポロビール株式会社は、戦前の人気ブランド「ヱビスビール」を1971(昭和46)年12月に復活させます。(写真⑫)(写真⑬) 戦時中の1943(昭和18)年、すべてのビールブランドが停止されて以来、28年ぶりのことでした。復活に際しては、単なるブランドの復活ではなく、高品質ビール、ドイツタイプのビールの商品化に取り組んだのです。ドイツタイプのビールとは、1516年に制定されたドイツのの法律「ビール純粋令」に従ったビールのことを指し、大麦、ホップ、水以外の使用はが認められていません。したがって、米やコーンなど一切の副原料を使用しない麦芽100%ビールのことです。当社の技術陣が副原料を使用しないビールの製造に取り組み、わが国では戦後初めての麦芽100%のビールとして蘇らせたのです。長期熟成が生み出すリッチでコクのあるヱビスビールは、その品質の高さから大いなる人気を博しました。「名品。いま、よみがえる。特製ヱビスビール」。プレミアムビールの先駆けです。

  • (写真⑫)復活した「ヱビスビール」のラベル
    (写真⑫)復活した「ヱビスビール」のラベル
  • (写真⑬)1971年の「ヱビスビール」のポスター
    (写真⑬)1971年の「ヱビスビール」のポスター

ロングセラー、黒ラベル

サッポロビールの樽生ビールは、サッポロライオンなどビヤホールでの実績があり、生はサッポロがうまい、との評判を得ていました。当社は競争関係で優位にある生ビールを前面に打ち出すことを決定。1977(昭和52)年4月、「サッポロびん生」を全国発売しました。(写真⑭)
びん詰め生ビールの商品化での問題は、役割の終えた酵母を除去することでした。当社の技術陣は、ビールのうまさを損なうことなく酵母を除去する無菌ろ過システムを独自に開発したのです。
さらに、サッポロびん生には大きな障害がありました。
それは、生ビールは夏の飲み物、との常識を覆すことでした。当時、生ビールは夏のイメージが根強く、冬場に人気がなかったのです。営業活動では、びん生は一年中おいしく味わえる商品であることを一貫して訴求。こうした取り組みが功を奏し、びん生は大ヒットしました。「びん生党」という言葉も生まれるほどの支持を得たのです。 サッポロびん生はラベルの色調から発売早々、多くのお客様に「黒ラベル」の愛称で呼ばれていました。当社では1989(平成元)年に、この愛称を正式ブランド名として採用。ですから、黒ラベルはお客様が名付け親なのです。今日まで変わることのない人気を誇っています。(写真⑮)

  • (写真⑭)1977年の「サッポロびん生」のポスター
    (写真⑭)1977年の「サッポロびん生」のポスター
  • (写真⑮)「サッポロ生黒ラベル」
    (写真⑮)「サッポロ生黒ラベル」

サッポロビールの広告宣伝

戦時中禁止されていた商標の使用が1949(昭和24)年に認められたのに伴い、ビール業界の宣伝活動も再開されました。サッポロビールの戦後の広告は1950(昭和25)年のニッポンビールの広告から始まります。
1954年には「ビールの王様」が誕生。当時の新進漫画家やなせたかしのイラストキャラクターを使用したこの一連の広告は、イベントと連動し、パブリシティ効果を計算に入れたものでした。それまでの広告から一歩抜け出した統一感のある広告として注目されたのです。(写真⑯) サッポロビールの全国復活とともに、広告も本場の味を強調したものとなりました。この本場を強くアピールしたのが、1958年の「ミュンヘン サッポロ ミルウォーキー」です。まだ自由な海外渡航が許可されていない時代で、世界のビールの本場を世界地図に図案化した広告とキャッチフレーズは斬新かつ説得力があり、大きな反響を呼びました。(写真⑰)
1970年には「世界のミフネ」が登場します。ポスターのデザインは極端なまでに単純化され、ロゴもボディコピーもラベルすらもないのです。テレビCMでも音声は音楽だけという徹底ぶりで「男は黙ってサッポロビール」という強烈なコピーを印象づけ、一世を風靡しました。(写真⑱)
それから30年後の2000(平成12)年1月、サッポロビールの新世紀を象徴する斬新な「サッポロ生ビール黒ラベル」のCMを展開。第1弾の「温泉卓球篇」は大きな話題を集め、CMデータバンクによるCM到達度ランキングで全業種中No.1に輝きました。(写真⑲)

  • (写真⑯)1954年の「ビールの王様コンテスト」のポスター
    (写真⑯)1954年の「ビールの王様コンテスト」のポスター
  • (写真⑰)1958年の「ミュンヘン サッポロ ミルウォーキー」のポスター
    (写真⑰)1958年の「ミュンヘン サッポロ ミルウォーキー」のポスター
  • (写真⑱)1970年の「男は黙ってサッポロビール」のポスター
    (写真⑱)1970年の「男は黙ってサッポロビール」のポスター
  • (写真⑲)黒ラベル「温泉卓球編」のポスター
    (写真⑲)黒ラベル「温泉卓球編」のポスター

商品情報

サッポロビールとヱビスビールのブランド紹介をご覧いただけます。