新生日本麦酒の誕生
大日本麦酒は過度経済力集中排除法の適用会社となり、1949(昭和24)年9月、日本麦酒株式会社と朝日麦酒株式会社に分割されました。両社の資本金は均等に1億円。資産額もほぼ均等に分割されましたが、支店、工場の配置は著しい相違がありました。東京と九州に両社の支社と工場がありましたが、日本麦酒は北海道から名古屋までの地域に、朝日麦酒は大阪以西の西日本に、それぞれ支店、工場をもつという偏在状態でした。
日本麦酒の社名は、大日本麦酒から継承した「サッポロ」「ヱビス」の両ブランドがどちらも地域的なものであったため、新社名とするには難があるとされ、全国的な広がりをもち、また大日本麦酒の継続を意味する日本が選ばれたのです。
新ブランド「ニッポンビール」
1949(昭和24)年12月、ビール各社の商標が復活し、広告宣伝活動も再開されました。日本麦酒はサッポロでもヱビスでもない新ブランド「ニッポンビール」を発売します。ラベルにはサッポロビールのシンボルである星のマークを冠し、「ヱビス・サッポロ改めニッポンビール」と記した補助ラベルを貼って、新ブランドの訴求力を補強しました。
しかし新ブランドの力は弱く、ビール全体の消費が年々伸びているにも関わらず、日本麦酒だけが苦しい状況が続きました。