1937(昭和12)年を境に、わが国の経済は急速に戦時色が濃くなっていきます。物資の軍需優先使用などによって、物不足は深刻化。1939年5月、ビールにも公定価格が定められ、翌年には配給制が実施されました。1943年5月、ついにブランド別のラベルがすべて停止されました。統一商標は「麦酒」。
桜麦酒株式会社の合併
大日本麦酒は企業整備令によって1943(昭和18)年11月、桜麦酒株式会社を合併。同社は、1912(明治45)年6月に設立された帝国麦酒株式会社にはじまります(1929年に桜麦酒と社名変更)。設立に際しては、神戸市の鈴木商店から工場用地の現物出資と経営上の援助を受けました。
1913(大正2)年4月、現在の北九州市門司区大里にビール工場が竣工。同年7月に「サクラビール」を発売しました。ビールの売行きは好調に推移していきます。しかし、1927(昭和2)年4月の鈴木商店の破綻により、手形債務の支払い義務が帝国麦酒にふりかかり、1938年の上期まで無配を続けざるを得ませんでした。
国内に1工場を保有するだけの桜麦酒は、市場シェアが7%に満たないものでした。大戦勃発後はビールの製造制限により、設備も人員も過大となり、企業整備の対象となったのです。