恵比寿ビールが危機的状況
東京を代表するビールとして、関東市場で絶大な人気を誇っていた恵比寿ビールでしたが、札幌麦酒東京工場製の札幌ビールの出荷が開始された1903(明治36)年、製造量は前年に比べ30%ほども落ち込んでしまいます。日本麦酒は長年保ち続けてきた首位の座を大阪麦酒に明け渡したばかりか、札幌麦酒にも抜かれ第3位に転落してしまいました。
難航する合同劇
3社合同、大日本麦酒設立
難航する合同劇の局面打開に重要な役割を果たしたのが、時の農商務大臣 清浦奎吾でした。第一次桂内閣で農商務大臣を務め、おりから勃興する諸産業、特に輸出産業について、国際競争力強化を目指し“分立から合同へ”の施策を進めた人物です。
清浦は3社の代表者を招き自ら斡旋の労をとりました。清浦の熱心な働きかけにより、1906(明治39)年3月、市場シェア70%をも占める日本最大のビール会社、大日本麦酒株式会社が設立されました。社長には馬越恭平が就任。後に馬越は、大日本麦酒をスエズ運河以東最大のビール会社へと導き、“東洋のビール王”と呼ばれました。