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1890年代後半のビール業界は札幌麦酒会社、日本麦酒会社、ジャパン・ブルワリー・カンパニー(麒麟ビール)、大阪麦酒会社(朝日ビール)の大手4社が激しい販売競争を行っていました。札幌麦酒は1898(明治31)年に東京出張所を開設し、営業活動は軌道に乗りつつありましたが、工場が札幌にあるという立地上の不利は免れませんでした。京浜市場での販売は、恵比寿ビールや麒麟ビールに大きく水をあけられていたのです。札幌麦酒では1899年6月の臨時株主総会で、東京工場の建設を提案し、承認を得ます。
東京工場の建設用地は隅田川沿いの旧秋田藩主佐竹邸跡地を1900(明治33)年3月に買収し、翌年から建設に着工。工事は順調に進み1903年9月に完成しました。工場完成に先立ち札幌ビールの宣伝をかねてビヤガーデンを開業し、盛況を博します。1905年、札幌麦酒はビールの製造量で業界トップになりました。札幌麦酒の東京進出は、ビール業界の再編という大きな波乱を巻き起こすこととなります。
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