ドイツでビール醸造を学んだ初の日本人
17歳の青年、中川清兵衛が故郷の新潟をあとにし、横浜からイギリスに渡ったのは1865(慶応元)年でした。その後、ドイツに移った中川は、留学生総代の青木周蔵(後の外務大臣)と出会います。青木の薦めで、1873(明治6)年3月からベルリンビール醸造会社フェルステンバルデ工場で修業をすることになりました。当時のビール職人の労働は厳しく休日もほとんどなかったといいます。
修業証書を携えての帰国
1875(明治8)年5月、2年2ヶ月に及ぶ中川清兵衛の修業は終わりました。ベルリンビール醸造会社から贈られた修業証書には「1873年3月7日から今日に至るまで旺盛な興味と熱心さをもって、ビール醸造および製麦の研究に精励し、よくその全部門にわたりすぐれた知識を習得し、ヨーロッパにまで来訪した目的を達成した。有能にして勤勉な他国の一青年を教育し得たことは、われわれの大きな喜びであり、彼を送るのは忍びがたいものがあるが、心から前途に幸多かれと祈るものである。」と記されています。中川は修業証書を携え8月、10年ぶりに帰国しました。
札幌に麦酒醸造所建設を建白
1875(明治8)年8月、開拓使は麦酒醸造所を東京に建設し、試験醸造に成功すれば北海道に移設することを決定していました。しかし、麦酒醸造所建設の責任者であった開拓使官吏村橋久成は、麦酒醸造人の中川清兵衛から低温で発酵・熟成させるビール造りの話を聞くうち、村橋は氷の重要性を認識し、東京での醸造所建設に疑問をもちはじめます。同年12月、村橋は氷雪の豊かな北海道に最初から建設すべきである、との稟議書を提出。開拓使幹部の決定を覆し、札幌での建設に踏み切らせたのでした。
開拓使麦酒醸造所の開業
開拓使は1876(明治9)年6月、青木周蔵から推薦された中川清兵衛を迎え入れ醸造所の建設に着手します。9月「開拓使麦酒醸造所」が完成。サッポロビールの歴史はここに始まります。醸造所は木造2階建てで、建坪は260坪ほどでした。総工費は8,348余円、現在の金額に換算すると約1億円でした。開業式での記念写真が残されています。積み上げたビール樽には「麦とホップを製す連者(れば)ビイルとゆふ酒になる 開業式」と白字で大きく書かれていました。
道産原料でのビール造り
黒田開拓長官は北海道の気候、土壌が麦作に適しているとの開拓使顧問ケプロンの意見で、ビール大麦の育成と地元産利用を指令します。このことが、当社の大麦の品種改良と契約栽培の端緒です。 しかしそう簡単ではありませんでした。1872(明治5)年から開拓使は、実験農場で大麦の試験栽培を行いますが、栽培に適した大麦が得られず苦労が続いたのです。収穫量も品質的にも安定しないのです。ようやく1880年に、はじめて全量を道内産大麦で賄うことができました。
ホップ栽培については1877年、札幌にホップ園を設け本格栽培に着手。しかし植え付けた苗の大方が枯れてしまうことが何年も続きました。試行錯誤の末、1881年、ようやく開拓使麦酒醸造所で使用するホップはすべて道内産で賄うことに成功したのです。